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同期会報告「7期」 長谷川 益男(7期) 2010.09.18

長谷川 益男(7期)2010.09.18

 
 毎年恒例の7期クラス会を猛暑の中、9月4日(土)の午後、入母屋新宿エルタワー店で行った。
今年の出席者は会員20名のうち14名(写真は12名)であり、近年ほぼ同じような出席者数であ
る。出席者はほとんどが関東地方在住であるが、中には西川のように岡山市から毎年出席してい
る者もいる。出席者は全員元気で趣味や日常生活、健康維持法など、それぞれの近況を報告しあ
い歓談して、4時間余り楽しい時を過ごした。
 欠席者中3名は体調不良であった。出席者でもすこぶる健康という者は少なく、元気ではあるが
医者通いしている者も多くなってきている。齢には勝てない現実がある。
 会の運営は小幹事と大幹事の2人制で行っており、実際の運営は新任の小幹事が行い、前小幹
事は大幹事となり、小幹事の補佐役となる。幹事は出席者の中から、遠距離者や健康に問題があ
るなど特別の理由のない限り、名簿順で担当している。幹事の仕事は会場の設定、会員への案内、
そのための名簿の整備、会計処理などである。特に会員が常に連絡が取れるように住所、電話番
号、メールアドレスなど連絡網の整備に注力している。これらの事が継続的にクラス会が開催できて
いる理由であると思っている。
 青春時代に共通の環境と目的をもって共に学んだ友と、一年に一度語り合う機会は、齢を取るに
つれて大切であり、貴重なものになっている。 

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同窓会雑感 小野崎 敏(5期) 2010.09.18

小野崎 敏(5期) 2010.09.18

 
 私は1957年工業化学科有機・永井研究室卒業の5期生である。私達の卒業の頃に旧工化同窓会が結成されて、その第一回総会を深沢校舎会議室で開催したことを覚えている。その後、会則も決められて、会長は卒業後5年の同窓生が毎年引継いでいくようになった。
 私は1962年に、その会長職をバトンタッチし、6,7,8各期の副会長、会計等の役員とともに新体制で一年間職務を行い、次期に引きついだことを覚えている。その時に本部同窓会のよびかけもあり、本部八雲会の委員としても参画するようになった。妙な縁でそれ以降、本部の八雲会に約半世紀にわたり役員として関与することになったが、昨年その理事職も退いた。その間、キャンパス移転や大学再編に組織委員長や副会長として長期間会務にあたった。
 工化同窓会にも私なりに関心をもち、事あるごとに参加していたが、いつのまにか役員引きつぎなどの慣行も途切れて形骸化してしまったのは残念である。
 同窓会の目的は、会員相互の親睦に加えて、大学の目的及び使命の達成に協力し、在学生のためにも協力、活動することにある。それらを始動するのが役員の職務でもある。
 本部同窓会組織に長い間かかわり、本部から私達の工化(応化)同窓会を見たとき、全学の学部・学科・ゼミ・運動部等々の同窓生組織の中で、一番充実し、名簿・会報・財務が充実している一見優等生の会である。
 このたび応化同窓会として衣替えを契機に、新しい皮袋には新しい酒を入れて、人身一新して、先輩達が築きあげた組織を活性化してもらいたい。新役員のリーダーシップを発揮し、同窓会の目的を達成されることを、一老兵として望むものである。

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都立大の思い出 西田 滋 (1期) 2010.09.16

西田 滋 (1期) 2010.09.16

 
 平成20年7月末に毎日出勤のサラリーマン生活約50年を終えて、都立大卒業後57年、81歳になりました。都立大は昭和24年新制大学として旧制都立高校、東京都立工業専門学校、東京都立化学工業専門学校など6校が統合されて発足したことはご存知と思います。

 当時の入学試験には今と似た全国アチーブメントテストがありましたが、都立大は国立大より早く試験があって合格すると後が受けられなくなるので、在学して次年度国立大を受け直す人もいて、学内は1年間落ち着きがなかつたように思います。
 入学式は目黒区の古色の府立高校講堂で卒業式も同じ所でした。いずれも安井都知事が出席され祝辞を述べられました。卒業式の学生自治会代表の答辞はもつと大学予算を付けてくださいでした。都知事はコロンビア大学を見に行かれたようですが、当時の昼夜通し制度などは今考えると進んだ制度とも思えます。首都大学には将来を見据えて、学内外の意見を集めて絶えず改革を進めること求めたいです。

 2年間の教養課程は旧制高校の先生が主でしたが、旧制大学の先生が黒板にドイツ語でゲゼルシャフト、ゲマインシャフトなど書かれて講義を始められた事が印象に残っています。会社に勤めて係長時代にこの言葉が社長と工場長の間で出てきて驚きました。哲学などは生徒に人気があつたせいか定員超過で取れませんでした。
 教養課程の化学は理学部の先生が担当され、野口先生の多摩川の水分析に休みについて行き、工学部と理学部との相違を知りましたが、会社の指示で約10年後第1回の水質関係第1種公害防止管理者試験を受け、無事通れたことで先生の研究が理解できました。
 教養課程1年目の時代は全学連が立ち上がり、戦後の反動で左派的な立場の学生が自治会の主流で工学部の学生はやや保守的傾向でした。2年目に学生自治会の役員をやらせられましたが、他学部の先生、役員との交流は大いに役立ちました。
専門課程では工業化学科電気化学教室の理学博士田島栄教授(旧都立航空高専)、小坂助手(旧都立化学高専)のお二人に教わりました。上級生がいないため卒業論文を2年間やらせて貰い、電気化学の学会誌の末尾に2回名前を載せられましたが、夏休みは2回とも返上でした。後輩の方にはぜひ独立(分担でも)で卒業論文に重点を置くことを勧めます。

 Chemical Abstractなどの引き方を詳しく教わったことは後にも大変役立ちました。都立大の図書館は戦災を受けなかったので、外国の翻訳小説、マルクス、エンゲルスなど借りて読むことが出来ましたが、専門書は殆ど無かったので田島先生の顔で東工大の書庫を利用させてもらいました。

 工学部の工業化学科は理学部の化学科に同居、次に理学部校舎が駒沢に出来てその一部を間借りしましたが、理学部化学科の先生の研究会など覗けたこと、理学部の単位が選択出来た事など良かったと思います。今後少数制の学生、総合大学の特色などフレキシビリティを残してほしいと思います。

 私個人は2年間、旧制高校の雰囲気が残っていた事を非常に感謝しています。

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インターネットと同窓会 小宮 衛 (12期) 2010.09.15

小宮 衛 (12期) 2010.09.15

 
 昨年のことです。

小学校卒業以来音信不通になっていた恩師の消息が気になりました。その恩師は、

小学校2年生の時に師範学校を卒業して赴任し、クラス替えもせずに6年生まで担任して、教師を辞めてしましました。熱血教師で、たまには体罰もありましたが、生徒は大きな影響を受けました。その間、ご自身も早稲田大学に通い、学士になりました。

 教師を辞めてから、2年ほど東京にいたのですが、その後長崎に帰り、其のままになりました。

 私は途中で転校したのですが、クラス替えのなかった当時の生徒たちは纏まっており、私も含めて今でも集まります。70歳を目前にして、恩師に会ってみたいという声が上がりました。

 しかし手掛かりはありません。

長崎、ピカドン、師範学校、対馬、辰年が断片的な記憶からの情報でした。

試みに長崎大学同窓会を検索してみると、教育学部同窓会があり、旧制師範学校から継続している事がわかりました。HPを開くと、役員の中に同年卒と思われる方がいました。早速同窓会気付けで、其の方に恩師が同窓生にいないか、いれば消息がわからないだろうかと伺う手紙を出しました。

 しばらく何の音沙汰もなかったのですが、ある日、長崎から突然電話をいただきました。そして、同窓生にお尋ねの人は確かにおり、三年ほど前の住所は分かったのだが、もう住んでいなく、電話も通じない。師範学校は本科と予科がありその間の交流は少なく、半数は原爆の犠牲になり、生存したものも半数は亡くなっているので、いろいろ当たってみたが、個人的な繋がりを探すのも、自分の体調不良もあり、もう無理だとのことでした。

 それでも私は、もっと以前に長崎大学同窓会に連絡すれば、会えたのにと悔やみながらも、其の方に尽力頂いたことがうれしく、同窓会の存在とインターネットの発展をありがたく思ったことでした。

 現在、大学を卒業すると、転勤等で住所が変わること、会社を変わることが普通になっている、海外に住むことも稀ではなくなりました。そして個人情報保護法施行以来、名簿も発行できません。そして年々、連絡が取りにくくなっています。異業種交流も産学協同も、提携も他大学の同窓生間で起こることは珍しくありませんから、首都大学東京の卒業生は、かなり意識して同窓会のネットワークを維持しうる事が大切です。

同じ大学を卒業した事実は終生消えませんから、卒業後のバーチャル本籍登録地を同窓会であると考えて、首都大学東京応化同窓会のHPを通じて、最新の異動情報を、各人がインプットするようにしたら如何でしょうか。その集積によって、再びいろいろな活用ができるのではないでしょうか。

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同 窓 会 雑 感

顧問候補 馬場 宣良(1回生)
 
 この度、工化同窓会の顧問の話があり大変光栄に思っております。
 今私は第1期生として、また、工業化学科の初めての教員として複雑な思いです。
 と申しますのは、第1期生から第3期生までの方々には同じ教室で学んだ学友として同窓生の思いがあるのですが、第4期生から以降は研究室の助手と卒業研究の学生と指導者との関係、そして第11期生以降の学生とは助教授となって教室で無機化学、電気化学、工業化学概論などの講義も致しましたので教員と学生との関係としてのイメージが強かったのです。
 同窓会とはその名の通り同じ教室で学んだ学生の集まりですが、1953年卒業の第1期の学生から2008年現在卒業の学生まで非常に幅広い層をもった卒業生を一律に束ねることは非常に困難な事と想像しております。
それでも私はこれを大きく3つのグループに分けて考えております。

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同窓会への誘い

書記候補 上野 賢一(24回生) 

 気がついたら三十?年が経ってしまいました。
五十路を過ぎ、漸く同窓に目が行くようになったような気がします。皆様は如何ですか?
 私たちが学部を卒業したのは昭和51年で、都立大の24期に当たります。
 就職が厳しく院に進んだ方を除き、希望先に入れなかった方が多い時期でした。
 少人数での集まりを経て、数年前から同期で集まるようになりました。24期に因んで名称は錦(ニシキ)会と言います。立上げは宴会形式で会場を借りて行いましたが、二回目以降、苦しい懐具合と談笑時間の問題から、同期メンバーの会社施設を借りての泊まり開催となり現在に至っています。
 同窓会というと同期会と違い腰が引けて、取っつき難い印象ですが、先輩の失敗談(失礼!)や一家言を聞いたりするのも、偶には良いのではと思います。
 工化同窓会はあなたを待っている!!

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同窓の仲間、大きな財産

会計候補 保木 隆史(17回生)
 
 先日先輩から工化科同窓会の会計を引き受けないかとの打診があり、二つ返事でお受けすることにしました。
とは言え、私は卒業後同窓会の行事に一度も出席したことが無かったので、今になって同窓会とは何を目指している組織なのかと改めて考え始めた所です。 
 卒業生名簿を改めて眺めてみると、勤務先はやはり化学関連のメーカーが多いようですが、むしろもっと広い分野で活躍されている方が意外と多いことに改めて驚きました。
 このような異業種の多くの皆さんと交流の機会が持てる同窓会には是非とも出席したいし、魅力的な集まりに成るだろうと思うのです。       
 一昨年のことになりますが、私の在籍した高分子研究室のS44、45、46年在籍者で混成ミニ同期会をやりました。卒業以来数十年ぶりに会う人、噂だけは聞いていた人等少しはお互いを知っていたことも有り話しは尽きず、楽しく貴重な時間が持て近々の再会を約して別れました。 10年、15年前にやっていれば更に仕事を共通の話題として、もっと話が弾み色々な力も得たであろうと残念でなりません。

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先ずは同期会をまとめます

副会長候補 池田正義(13回生)
 
 学生時代は無機工業化学科金沢研究室にて、リン酸塩ガラスのテーマに取り組みました。
目出度く卒業後、日立化成でセラミックの開発を手掛け幸運にも抄紙機用ベッドの開発に成功しました。
 材料・設備の更なる開発により、他の追従を許さない高品質のこの抄紙機用ベッドはほとんどの日本の製紙企業に採用され高シェアを誇りました。
 その後特許論争に勝訴するも訴訟の間にシェアが落ち、企業の開発は総合的な戦略が必要であることを痛感させられました。そのことが、どんなに社会人としての自分を成長をさせてくれたことか。
 同窓会は正に深い襞を持った人達の集まりで、噛めば噛むほど味が出る集団だと思います。
 小井会長を盛り立てて、同窓会を更に味のある意義深いものにして行きたいと思います。
 その第一歩として、吾が13期の同期会をしっかりとまとめて行く所存です。

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