会員便り

大学卒業50年を記念し都立大・工化・第11期卒同期会を開催しました

私たち工化・第11期のメンバーは1963年(昭和38年)3月に卒業しました。同期は25名で
それぞれが民間企業や或いは大学教職員として活躍してきました。
1963年というのは日本が戦後の復興から立ち上がり経済成長が進み始めた年でした。各人は新入社員時代から上司や先輩に叱られ、教えられ、鍛えられた世代です。サービス残業など当たり前であり、必死で業務をこなした思いがあります。
その後幸いにも日本は高度成長期に入り、私たちは「右肩上がりの良い時代を過ごした世代」とも言われますが、その間に「辛い業務に文句一つ言わず努力に努力を求められた」のが私たちの30代から40代の生活でした。50代になると、いわゆる平成不況に遭遇します。管理職として上からの指示と部下の統率に悩みました。中には、部下をリストラで首切る役目になったり、自ら転職を余議なくされた人もいます。
多くの仲間は60歳で定年退職をしましたが、まだまだ現役で働いている人間もいます。そんな長いビジネスマン生活も一区切りと考え、卒業50年記念として同期会の旅行を企画しました。

同期の仲間に滋賀県長浜市木之本出身の速水さんがおられます。京都や大阪は詳しい人も多いですが、意外と近江・滋賀県のことを知らない人も多いと考え、速水さんの地元の「滋賀県の名所を見物し、旧交を温めながら、歴史勉強をしよう」という企画内容です。

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同期会報告「31期」 立花 宏(31期)

2人(佐藤、浜元)の出会いから31期卒の同期会が開催されることとなりました。7月14日に、関西や関東北部からも含め14名(約4割の出席率)が汐留に集まり29年ぶりの旧交を温めました。昔に比べて、太った人、やせた人、頭の薄くなった人(筆者)、白くなった人など、各々の年の取り方をしているのはどの期でも同じでしょう。中には、全く変わっていないおじさんサーファーもおり驚きでした。女性陣は、化粧品の技術進歩を有効活用しているようで、とても同じ年には見えません。参加者は、上方、佐々井、佐藤、下里、津藤、立花、成田、西川、浜元、三浦、村上、松本、諸橋、勝山。3時間近くのだんらんの後、数名が深夜までの2次会&お台場の温泉に宿泊、翌日は都立大学跡地を散策となったようです。
 ところで、同期の中には音楽好きも多く、筆者は学生時代にはじめた尺八を吹き、皆に鼻笛を配ったりしましたが、50代向けの懐かしい曲集を作ってきたものもいました。世の中には、団塊世代R60以上の懐メロや、団塊ジュニア向けのR40ポップスなどのCDは多いものの、谷間であるR50向けは少ないというわけです。同期会の終了後のメールのやり取りの中から、みんなで思い出の曲を選び『心に沁みたあの曲 ~R-TMU工化31~』を作ってみては!ということとなりました。
以下が、実施された投票の概要です。
・今回は邦楽のみ.持ち票を15票/人 とします。
・同じ歌手の歌は1曲までとします。(票が割れて、涙を呑む曲が出るかも知れません)
・得票数でNo.1~No.10までを決定します。
・No.11~No.17/18は、得票数と、皆さんのエピソード、思いの強さを勘案して決めます。

ノミネートは全79曲となりました。投票ページを公開していますので、どなたでも、ぜひ、この中から好きな曲(何曲でも可)を選んで下さるようお願いします(世代がわかるように年齢も)。ある程度集まったら次の企画につなげて行きたいと思っています。
「R工化31:心に沁みたあの曲」人気投票

次回は、この投票結果発表(カラオケ大会付き)をメインに開催することとなる予定です。

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「平田光穂先生を偲んで 」本会会長、東京都立大学名誉教授 長浜 邦雄 2011.08.21

去る5月31日に、平田先生のお宅から「父が本日夕方に亡くなりました」との電話を受けしました。昨年来肺炎のため入院をされているとのことで心配していましたが、残念ながら帰らぬ人となられてしまいました。
最後に先生にお会いしたのは、2009年11月13日に目白の椿山荘で行われた米寿のお祝いでした(数え年88歳)。先生自身がご自宅からタクシーに乗ってご家族とともに椿山荘までの道のりを予行練習されてまで、このお祝いを楽しみにされていました。この会には約100名の平田研究室の卒業生が集まり盛大に行われました。そこでお目にかかった時は、髪が白くなられて少しやせられたもののお元気そうで、少しでしたが大好きなお酒も召し上がり、たくさんの卒業生と歓談され一緒にカメラに向かってポーズをとっておられました。後日、この会で撮った写真をアルバムに編集し、お届けしましたところ、先生は大変喜んでおられたことを奥様からお聞きしました。その中からお元気な姿を写真で示します。
インターネットで誰もが見られるフリー百科事典Wikipediaには「平田光穂」の見出しがあります。記事は未完成ですが、“平田光穂は日本の数学者。東京大学理学部数学科卒業。戦時中、日本工学(現・ニコン)でレンズの計算に従事。戦後東京工業大学で、数学者の立場から化学工学分野の技術者育成にあたった。「多成分系の蒸留」他,著書多数。“と紹介されています。
平田先生は、1922年に東京でお生まれになり、1944年に東京帝国大学理学部数学科を卒業され、その年に陸軍に入り航空技術中尉として終戦を迎えられました。1946年に東京工業大学内田俊一先生の下で研究生になり、1949年に同化学工学科助手になり、1951年に論文題名「気液平衡に関する研究」で工学博士を授与されました。1955年に「多成分系の蒸留」を世に出されました。1957年3月に東京都立大学工学部工業化学科助教授として赴任され、翌年4月に同教授になられ、1986年3月のご定年まで同大学にお勤めになりました。その間、学内では評議員や図書館長などの要職をおつとめになりました。そのご功績により1998年に勲3等旭日中綬章を授与されました。学会関係では、化学工学会の編集委員長、理事および化学工学物性委員会委員長などを歴任し、分離技術会会長、石油学会では各種委員長など、多くの要職を歴任されました。
著書「多成分系の蒸留」は、当時から現在まで日本中の化学技術者が愛読した、世界的な名著と言われています。まさに数学者の立場から蒸留工学を手中におさめたといえる内容でした。それまで誰にとっても理解が困難だった多成分系の蒸留を数学的にかつ簡潔にまとめ、実用数学によってその問題を解く方法も教えてくれた、今でも通じる名著です。まさに、この本のおかげで今日の日本の石油精製や石油化学の分野で多数の蒸留塔が建設されたと言っても過言ではありません。平田先生は化学工学における物質の物性(化学工学では物性定数)の重要さについても早くから注目し、化学工学会に物性定数委員会をつくり大きな貢献をされました。物性定数に関する活動は、その後も継続され、科学技術庁から委託された「熱物性データバンクの整備に関する調査」、またその結果を受けて作られた「熱物性データベース(JICST)」の開発に傾注されました。1970年代に入り超臨界流体や膜を用いた分離技術の研究にも多くの成果を上げられました。
先生の教え子は、平田研究室卒業生だけでも300名を超えます。学問や研究では学生の自主性を重んじ、厳しく鍛えられましたが、日常生活では人情味にあふれた優しい、風呂上がりのようなさっぱりとした性格の先生でした。また、大学院教育に情熱を向けられ、私が博士課程の学生だった1960年後半には6名の博士課程の学生が同時に在籍し、ゼミは壮観でした。都立大学在任中に先生は課程博士 12名、論文博士8名の主査を務められました。
我々はよき師に恵まれ、とても幸せでした。今、平田先生は永遠の眠りにつかれましたが、先生の教えは“てな調子の歌”とともに我々の心の中にずっと生き続けることと思います。長年にわたって公私ともどもご指導をいただき、本当にありがとうございました。
平田光穂先生のご冥福を心よりお祈りいたします。

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同期会報告「25期」 三谷 洋(25期) 2011.01.30

都立大学25期の三谷です。
昨年の同窓会総会で会計を担当することになりました。
宜しくお願い致します。
総会開催に合わせ、同期の連絡先を探し出しました。
同期は、37人ですが、いまのところ、メールアドレスが分かっていて、常時連絡が取れる人が16人、住所は分かっているが連絡手段が紙媒体に限られる人が10人、あとの方々は不明、と言う状況です。
26人に声をかけ、1月22日、卒業以来初めての同期会を開催致しました。
実に34年ぶりと言うことになります。
参加は6人でしたが、学生時代の思い出やそれぞれの近況を語り合い、楽しい時間を過ごすことができました。
次回は、山梨で泊りがけでやろうかと言う話になりました。その後の参加者のメールのやり取りでは、石垣島案も浮上していますが。
  
大学は、名前も変わり、私は有機工業化学ですが、教室もなくなり、寂しい思いをしておりますが、「母校」首都大学東京の発展に微力ながら尽力できれはと考えております。
皆様からも同窓会発展、ひいては大学発展のアイデアを頂ければ有り難く存じますが、まだの方は是非、同窓会終身会費の納入をお願い致します。
今回の同期会では、2人から終身会費を頂くことができ、感謝しております。
ところで、新聞報道などでご存知の方も多いと思いますが、同期の細野君(東京工業大学教授)が朝日賞を受賞しました。

http://www.asahi.com/shimbun/award/asahi/2010award04.html
権威ある賞であり、同期として嬉しい限りです。
また、同窓会総会準備の最中、5期の小野崎さんの足尾銅山でのその歴史保存のご活躍を知り、足尾の見学に行ってきました。
http://www.shippai.org/shippai/html/index.php?name=news545
同窓会で新しい繋がりを得ることができ、嬉しく思っております。
最後になりますが、皆様、同窓会、大学の益々の発展を祈念し、同期会報告とさせて頂きます。

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新生同窓会についての一考察  上野賢一(24期) 2010.09.27

 業平と言えば一昔前までは、「名にし負わば、いざ事問はむみやこどり、我が想う人ありやなしやと」と詠んだ在原業平でしたが、今ではスカイツリーを思い浮かべる人が多いのではないかと思う。このように時代とともに人の感覚は変わってきている。

55 期まで達した我が都立大工化同窓会も、今、大学名の消滅と共に、首都大学東京応化同窓会として生まれ変わろうとしている。この機会を捉え、個々の同窓会に対する思いを見つめ直してみるのも良いのではないかと思う。私自身、気持の余裕がなく同窓会の目的である「先輩・後輩との幅広い交流」の意義が理解出来なかった。つまり居心地が悪かった。皆様はどうですか?

新生同窓会発足に当たり、同窓会に求めるものは何かを同窓会にぶつけてみることが、同窓会の活性化となり居場所の良い同窓会組織を創ってゆくことになると思う。

「新しいワインは新しい革袋で」の諺どおりに、先ずは自分が新たなワインとなって、自分の頭で主体的に考え、仲間と共に新たな革袋を作ることが必要に思う。

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同期会報告「11期」 暑気払いの集いと雑感 松山 純一(11期) 2010.09.19

 異常な猛暑が続く8月中旬、海谷、大石両名の呼びかけで、暑気払いをしようと声がかかった。東京の近くにいる工化11期の 保母、小島、稲垣、池口、松尾、松山、が加わり8名が、新宿にてビールを飲みながら、各自の近況を紹介しあった。

 話は仕事の内容やら、新たな発明を考えていることやら、海外の情勢やら、趣味の楽しみやら、急に目覚めて量子力学を学んでいることやらと、いろいろ話は飛ぶが、わいわいと2時間あまりの楽しいひとときを過ごした。

 大方のものが古希を過ぎているのを機に、秋に屋形船で同期会をやる計画にしているので、健康管理をし万難排して出席してください、と幹事の保母さんより告げられ解散となった。

 帰りの電車の中で、大学生活や企業での人生を振り返り、こんな思いにふけった。
毎年終戦の日が近づくと、馬鹿な指導者によって行われた戦争に対する反省と今の平和を感じるが、現在もいまだに国民が安心して生活できるための政治が行われていないのが気になる。

 我々の世代は戦後の貧困の中から、日本の技術力を高め、優秀な製品で輸出に貢献し、結果的に国家のために尽くしたはずだが、若者達に希望を与えられない社会になってしまったのは何が欠けていたのだろう。安心して暮らせる社会の仕組みや、国際間の仕組みは、技術の進歩と相応して進歩せねばならなかったのだろうが、大きな仕組みを考え施行する政治がなされてこなかったのだと思う。やはり戦前も戦後も優れた政治家が出てこないのが最大の問題だろう。

 今の政治家を見ると、優れた政治家にならんとして大学できちんと政治学を学んだ議員は殆どいないのではないのか。

 タレントやスポーツ選手も政治家の中に少しはいても良いとは思うが、やはり大きな、将来的展望を持って世界に通用する政治家を、社会全体で育んでいく必要があるのではないだろうか。大学の教育もそのような政治家になれる人材を育てて欲しいものだ。                   

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同期会報告「27期」 斉藤正裕(27期) 2010.09.19

同窓会の皆様、いかがお過ごしでしょうか?

都立大27期の斉藤です。昭和54年に学部を卒業して早や30年が過ぎました。

目黒、深沢キャンパスで学んでいた頃を懐かしく思うこのごろです。

わが27期は、この1年間で3回の同期会を開きましたので報告致します。開催のきっかけは、昨年の平田先生(化学工学)の米寿祝賀会が催された時に同期会の話が持ち上がったのが始まりです。荒賀さんが幹事をされて昨年11月に6名、今年2月には20名の同期が集まりました。53~55才の年齢層で子供は高校生、大学生、社会人となって子育てがひと段落して同期会にでも参加してみようかという余裕?が出てきたような仲間たちが集いました。大学教授や会社の社長になった人、卒業後ずっと同じ会社に勤続して管理職になっている人、転職して頭角を現している人など様々ですが、会社の先行きへの不安や健康に不安を抱えている人も多く、いろいろと難しい世代であることも感じられました。

今年の7月には、石和田さんと大沢さんが幹事になって3回目の同期会が行われ、13名が集まりました。写真は7 月の同期会の模様です。この時は建築科の同期で女性の野村さんが特別ゲストとして参加され、男集団の中に一輪の花を咲かせてくれました。同期の間で最近の様子などを意見交換する機会が得られるのはとても大切な事です。一方で、一度も参加していない人たちが話題に上がり、今どうしているのだろうかと風の便りも話されました。二次会ではカラオケボックスで盛り上がり散会となりました。

今後も定期的に同期会を開催して、一人でも多くの人が参加できるように、マンネリ化しないように新しい企画を考えながら続けていきたいと思います。

同窓会の皆様との繋がりも作っていけたらすばらしいと思っています。

以上、27期からのレポートでした。

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同期会報告「7期」 長谷川 益男(7期) 2010.09.18

長谷川 益男(7期)2010.09.18

 
 毎年恒例の7期クラス会を猛暑の中、9月4日(土)の午後、入母屋新宿エルタワー店で行った。
今年の出席者は会員20名のうち14名(写真は12名)であり、近年ほぼ同じような出席者数であ
る。出席者はほとんどが関東地方在住であるが、中には西川のように岡山市から毎年出席してい
る者もいる。出席者は全員元気で趣味や日常生活、健康維持法など、それぞれの近況を報告しあ
い歓談して、4時間余り楽しい時を過ごした。
 欠席者中3名は体調不良であった。出席者でもすこぶる健康という者は少なく、元気ではあるが
医者通いしている者も多くなってきている。齢には勝てない現実がある。
 会の運営は小幹事と大幹事の2人制で行っており、実際の運営は新任の小幹事が行い、前小幹
事は大幹事となり、小幹事の補佐役となる。幹事は出席者の中から、遠距離者や健康に問題があ
るなど特別の理由のない限り、名簿順で担当している。幹事の仕事は会場の設定、会員への案内、
そのための名簿の整備、会計処理などである。特に会員が常に連絡が取れるように住所、電話番
号、メールアドレスなど連絡網の整備に注力している。これらの事が継続的にクラス会が開催できて
いる理由であると思っている。
 青春時代に共通の環境と目的をもって共に学んだ友と、一年に一度語り合う機会は、齢を取るに
つれて大切であり、貴重なものになっている。 

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同窓会雑感 小野崎 敏(5期) 2010.09.18

小野崎 敏(5期) 2010.09.18

 
 私は1957年工業化学科有機・永井研究室卒業の5期生である。私達の卒業の頃に旧工化同窓会が結成されて、その第一回総会を深沢校舎会議室で開催したことを覚えている。その後、会則も決められて、会長は卒業後5年の同窓生が毎年引継いでいくようになった。
 私は1962年に、その会長職をバトンタッチし、6,7,8各期の副会長、会計等の役員とともに新体制で一年間職務を行い、次期に引きついだことを覚えている。その時に本部同窓会のよびかけもあり、本部八雲会の委員としても参画するようになった。妙な縁でそれ以降、本部の八雲会に約半世紀にわたり役員として関与することになったが、昨年その理事職も退いた。その間、キャンパス移転や大学再編に組織委員長や副会長として長期間会務にあたった。
 工化同窓会にも私なりに関心をもち、事あるごとに参加していたが、いつのまにか役員引きつぎなどの慣行も途切れて形骸化してしまったのは残念である。
 同窓会の目的は、会員相互の親睦に加えて、大学の目的及び使命の達成に協力し、在学生のためにも協力、活動することにある。それらを始動するのが役員の職務でもある。
 本部同窓会組織に長い間かかわり、本部から私達の工化(応化)同窓会を見たとき、全学の学部・学科・ゼミ・運動部等々の同窓生組織の中で、一番充実し、名簿・会報・財務が充実している一見優等生の会である。
 このたび応化同窓会として衣替えを契機に、新しい皮袋には新しい酒を入れて、人身一新して、先輩達が築きあげた組織を活性化してもらいたい。新役員のリーダーシップを発揮し、同窓会の目的を達成されることを、一老兵として望むものである。

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都立大の思い出 西田 滋 (1期) 2010.09.16

西田 滋 (1期) 2010.09.16

 
 平成20年7月末に毎日出勤のサラリーマン生活約50年を終えて、都立大卒業後57年、81歳になりました。都立大は昭和24年新制大学として旧制都立高校、東京都立工業専門学校、東京都立化学工業専門学校など6校が統合されて発足したことはご存知と思います。

 当時の入学試験には今と似た全国アチーブメントテストがありましたが、都立大は国立大より早く試験があって合格すると後が受けられなくなるので、在学して次年度国立大を受け直す人もいて、学内は1年間落ち着きがなかつたように思います。
 入学式は目黒区の古色の府立高校講堂で卒業式も同じ所でした。いずれも安井都知事が出席され祝辞を述べられました。卒業式の学生自治会代表の答辞はもつと大学予算を付けてくださいでした。都知事はコロンビア大学を見に行かれたようですが、当時の昼夜通し制度などは今考えると進んだ制度とも思えます。首都大学には将来を見据えて、学内外の意見を集めて絶えず改革を進めること求めたいです。

 2年間の教養課程は旧制高校の先生が主でしたが、旧制大学の先生が黒板にドイツ語でゲゼルシャフト、ゲマインシャフトなど書かれて講義を始められた事が印象に残っています。会社に勤めて係長時代にこの言葉が社長と工場長の間で出てきて驚きました。哲学などは生徒に人気があつたせいか定員超過で取れませんでした。
 教養課程の化学は理学部の先生が担当され、野口先生の多摩川の水分析に休みについて行き、工学部と理学部との相違を知りましたが、会社の指示で約10年後第1回の水質関係第1種公害防止管理者試験を受け、無事通れたことで先生の研究が理解できました。
 教養課程1年目の時代は全学連が立ち上がり、戦後の反動で左派的な立場の学生が自治会の主流で工学部の学生はやや保守的傾向でした。2年目に学生自治会の役員をやらせられましたが、他学部の先生、役員との交流は大いに役立ちました。
専門課程では工業化学科電気化学教室の理学博士田島栄教授(旧都立航空高専)、小坂助手(旧都立化学高専)のお二人に教わりました。上級生がいないため卒業論文を2年間やらせて貰い、電気化学の学会誌の末尾に2回名前を載せられましたが、夏休みは2回とも返上でした。後輩の方にはぜひ独立(分担でも)で卒業論文に重点を置くことを勧めます。

 Chemical Abstractなどの引き方を詳しく教わったことは後にも大変役立ちました。都立大の図書館は戦災を受けなかったので、外国の翻訳小説、マルクス、エンゲルスなど借りて読むことが出来ましたが、専門書は殆ど無かったので田島先生の顔で東工大の書庫を利用させてもらいました。

 工学部の工業化学科は理学部の化学科に同居、次に理学部校舎が駒沢に出来てその一部を間借りしましたが、理学部化学科の先生の研究会など覗けたこと、理学部の単位が選択出来た事など良かったと思います。今後少数制の学生、総合大学の特色などフレキシビリティを残してほしいと思います。

 私個人は2年間、旧制高校の雰囲気が残っていた事を非常に感謝しています。

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