「平田光穂先生を偲んで 」本会会長、東京都立大学名誉教授 長浜 邦雄 2011.08.21

去る5月31日に、平田先生のお宅から「父が本日夕方に亡くなりました」との電話を受けしました。昨年来肺炎のため入院をされているとのことで心配していましたが、残念ながら帰らぬ人となられてしまいました。
最後に先生にお会いしたのは、2009年11月13日に目白の椿山荘で行われた米寿のお祝いでした(数え年88歳)。先生自身がご自宅からタクシーに乗ってご家族とともに椿山荘までの道のりを予行練習されてまで、このお祝いを楽しみにされていました。この会には約100名の平田研究室の卒業生が集まり盛大に行われました。そこでお目にかかった時は、髪が白くなられて少しやせられたもののお元気そうで、少しでしたが大好きなお酒も召し上がり、たくさんの卒業生と歓談され一緒にカメラに向かってポーズをとっておられました。後日、この会で撮った写真をアルバムに編集し、お届けしましたところ、先生は大変喜んでおられたことを奥様からお聞きしました。その中からお元気な姿を写真で示します。
インターネットで誰もが見られるフリー百科事典Wikipediaには「平田光穂」の見出しがあります。記事は未完成ですが、“平田光穂は日本の数学者。東京大学理学部数学科卒業。戦時中、日本工学(現・ニコン)でレンズの計算に従事。戦後東京工業大学で、数学者の立場から化学工学分野の技術者育成にあたった。「多成分系の蒸留」他,著書多数。“と紹介されています。
平田先生は、1922年に東京でお生まれになり、1944年に東京帝国大学理学部数学科を卒業され、その年に陸軍に入り航空技術中尉として終戦を迎えられました。1946年に東京工業大学内田俊一先生の下で研究生になり、1949年に同化学工学科助手になり、1951年に論文題名「気液平衡に関する研究」で工学博士を授与されました。1955年に「多成分系の蒸留」を世に出されました。1957年3月に東京都立大学工学部工業化学科助教授として赴任され、翌年4月に同教授になられ、1986年3月のご定年まで同大学にお勤めになりました。その間、学内では評議員や図書館長などの要職をおつとめになりました。そのご功績により1998年に勲3等旭日中綬章を授与されました。学会関係では、化学工学会の編集委員長、理事および化学工学物性委員会委員長などを歴任し、分離技術会会長、石油学会では各種委員長など、多くの要職を歴任されました。
著書「多成分系の蒸留」は、当時から現在まで日本中の化学技術者が愛読した、世界的な名著と言われています。まさに数学者の立場から蒸留工学を手中におさめたといえる内容でした。それまで誰にとっても理解が困難だった多成分系の蒸留を数学的にかつ簡潔にまとめ、実用数学によってその問題を解く方法も教えてくれた、今でも通じる名著です。まさに、この本のおかげで今日の日本の石油精製や石油化学の分野で多数の蒸留塔が建設されたと言っても過言ではありません。平田先生は化学工学における物質の物性(化学工学では物性定数)の重要さについても早くから注目し、化学工学会に物性定数委員会をつくり大きな貢献をされました。物性定数に関する活動は、その後も継続され、科学技術庁から委託された「熱物性データバンクの整備に関する調査」、またその結果を受けて作られた「熱物性データベース(JICST)」の開発に傾注されました。1970年代に入り超臨界流体や膜を用いた分離技術の研究にも多くの成果を上げられました。
先生の教え子は、平田研究室卒業生だけでも300名を超えます。学問や研究では学生の自主性を重んじ、厳しく鍛えられましたが、日常生活では人情味にあふれた優しい、風呂上がりのようなさっぱりとした性格の先生でした。また、大学院教育に情熱を向けられ、私が博士課程の学生だった1960年後半には6名の博士課程の学生が同時に在籍し、ゼミは壮観でした。都立大学在任中に先生は課程博士 12名、論文博士8名の主査を務められました。
我々はよき師に恵まれ、とても幸せでした。今、平田先生は永遠の眠りにつかれましたが、先生の教えは“てな調子の歌”とともに我々の心の中にずっと生き続けることと思います。長年にわたって公私ともどもご指導をいただき、本当にありがとうございました。
平田光穂先生のご冥福を心よりお祈りいたします。

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